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『はっぴいえんど』は、1970年8月5日に発売されたはっぴいえんど通算1作目のスタジオ・アルバム。 == 解説 == 当時URCレコードのディレクターだった小倉栄司との縁により、バンドはURCレコードとの契約を得て本作を制作した。ジャケットに描かれた看板から、本作は「ゆでめん」という通称で呼ばれている。 「12月の雨の日」は別ヴァージョンも録音され、1971年に初のシングルとしてキングレコードからリリースされた。 本作は1971年に『ニューミュージック・マガジン』誌で第2回(1970年度)日本のロック賞を受賞したが、内田裕也はそれに対して、同賞においてURCレコードのアーティストが優遇されているという主張をしたため、『ニューミュージック・マガジン』誌上の日本語ロック論争へ発展していった〔『TJ MOOK 聴け! 伝説の日本ロック1969-79』(宝島社、2004年、ISBN 4-7966-3862-8)p.33〕。 後に大瀧詠一は、「レコーディングが終わった後は全員が“やったなぁ”って感じだった。朝になって外へ出たらすごく清々しくて。その時、鈴木茂が『やあ、すがやかな天気だなあ』って言ったんだよ。爽やかと清々しいとを足しちゃったんだよね。でも“すがやか”っていう一語に尽きたね、全員が。で、ものすごくいい天気だったんだよ」「4・5日で全部録っちゃったけど、ロックっていうベースの弾き方も、ロックっていうドラムの叩き方も、ロックっていうギターの弾き方も、ロックっていう歌い方もあるという、そういう所からスタートしたグループだよ、はっぴいえんどっていうのはね。俺たちはついにやったんだなあって思った」「これでもう十分に日本の音楽界に足跡を残すことができたんだって本当に力強く思ったよ。当時松本の彼女がレコード屋さんの店員をしていたんだけど、その彼女が『はっぴいえんどは日本のビートルズよ』って言ってたのを覚えているけど、あの当時は本当にそういう意識でやっていたことは事実だね。バッファロー・スプリングフィールドとモビー・グレープがサウンドの根底だった。やっぱり、アメリカン・サウンドのロックなんだろうな。バッファローはアコースティック・ギターをポイントに使っていて。モビー・グレープはエレキだね、サイドのカッティング。あれだけアコースティックを前面に押し立てたグループや、ギターが3人もいたグループは珍しかったね、当時。その2本立てでいこうっていうのが1枚目のLPに関してはあった。ただ、そこに細野のプロコル・ハルムとかあったけどね」と振り返っている。 アルバム・ジャケットは、漫画家林静一のイラストをフィーチャーした表紙に、野上眞宏が日頃から撮りためていたメンバーの写真を裏に配して、矢吹申彦がアート・ディレクションを手掛けた。後に野上が矢吹から聞いた話によれば、原画はモノクロで、矢吹が全体の黄色とはっぴいえんどの札の白抜きを決め、URCから渡されたメンバーの写真をコラージュしたとのことだった。林のイラストを使うことは、矢吹がデザインを引き受けた段階で既に決まっていたという。このジャケットが制作された1970年夏の時点で、野上にとって自身の写真が印刷されるのはこれが初めてだったこともあり、写真がどのように使われるかも知らされず、今までに撮った写真の中から好きなものをキャビネに焼いて持って来いとだけ言われたと思うという。使われたのはアオイスタジオでのレコーディング風景、シブヤ西武「MAYカーニバル」でのもの、白金台の自宅での細野晴臣、新宿と青山墓地で撮影した松本隆。野上は、全体のデザインのことをもう少し知らされていたら、違う写真を選ぶことができただろうと言い、表紙にコラージュされた写真はURCからネガを渡してくれと言われたもので、そのネガは野上の元に二度と戻ってこなかったという。ジャケットの歌詞カードは、マネージャーの石浦信三によって書かれた。歌詞カードには尊敬する人物が書かれているが、大瀧によれば、『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』の裏ジャケットにさまざまな人へのデディケーションが書かれていたことに影響を受けてのこと。しかし当時を代表する名前が多く、それが少し窮屈に感じたことから、三遊亭円生と広沢虎造という遊びの名前を入れたという 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「はっぴいえんど (アルバム)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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